学習塾の総合検索サイト。東京都・神奈川・埼玉・千葉・茨城・栃木・群馬などの学習塾、進学塾の総合検索サイト

学習塾の総合検索サイト 首都圏の学習塾検索
塾の検索教育ニュース最前線ホームルーム通信教育マメ知識塾GOブログ広告掲載について

学習塾検索サイト


最近のエントリー

アーカイブ


メイン

2006年10月28日

教育の自由化が招いた不幸な事件


 地方の公立高校や私立高校で、高校3年生の卒業が危ない。必修科目の未履修が、大きな問題になっている。今回の問題は、教育の自由化による弊害だ。しかし、この問題が発覚した時の各校長の発言が、情けない。「生徒の強い希望」で、そうしたという学校のなんと情けないこと。生徒の希望をそのまま聞いて、学習指導要領を無視するとは。しかし、この言い訳は、通用しないように思う。学校と生徒の利害が、一致したのだ。だからこそ、必修科目を無視して、大学受験科目を行なったのだ。
 今回の問題発生の県は、地方に限られている。公立高校の地方における大学進学の役割は、首都圏とは比較にならないほど大きい。首都圏では、高校と予備校が、役割分担しやすいし、私立高校と公立高校の合格実績における期待度が違うから、それほど、公立高校にプレッシャーは、かからない。かかるとすれば、都立高校の進学重点校ぐらいだろう。だから、東京都も一校出てしまった。かたや地方の公立高校は、地元の国公立大学や名だたる有名大学の合格実績を一手に背負っているのだ。だからこそ、教育の自由化が推進され、学校間競争が増幅された2002年前後からこのような問題が、起こるのだ。
 私は、学校に競争を持ち込むなといっているのではない。何でもかんでも競争を持ち込むなといっているのだ。切磋琢磨しなければならないものに関して、競争を保障し、長いスパンで人間的な成長を見守ることが必要な場面では、競争は必要ないのだ。全面的に、競争が学校現場に持ち込まれてしまったら、子どもの成長は、非常に短絡的なものになってしまう危険性があるのだ。そうなれば、学校制度の本質である、管理と選抜だけの学校に本当になってしまう。勉強だけのために、学校があるということになってしまうのだ。そうなってしまえば、子どもを一人前にする機会や機関が、なくなる恐れがある。それでなくても、学校にそういう機能がなくなりつつあるのだから、この流れは阻止するべきなのだ。
 自由競争を学校に、教育に持ち込む結果、私たちは、人間を一人前にする場所と時間を失くそうとしている。今回の事件は、学校に競争を持ち込めば、こういう事態になるのだという警鐘だ。前回のいじめの件もそうだが、競争主義が、万能ではないことを私たちは、自覚することだ。耳に心地よい教育改革は、疑うことだ。2002年の教育改革のキャッチフレーズを忘れるべきではない。みんなが100点を取れる学校!なんて今も昔も存在しないのだ。


2006年10月23日

子どもと秘密の共有を


 お子さんと秘密の共有をどのくらい行なっているだろうか。私たちに大切なことは、子どもが親に受け入れられていると実感を持ってもらうことだ。そうしないと子どもの精神状態が、不安定になって、何事もやる気にはならない。そして、親としても子どもからどのくらい受け入れられているのか、確認することが必要だ。そのために、ラポール(心の架け橋)を築く一貫として、秘密の共有をしてみてはいかがだろうか。
 子どもと建前で接する事も大切なことだが、子どもと本音で接する事も大切なことだ。一人の人間として子どもも親も接し合える環境を親が創ることも大切な親の務めだ。コミュニケーションの本質は、受容と解放だ。ぜひ、子どもを受容し、親としての自分を解放して、親子で、受容し合い、解放し合える関係を作っていこう。


2006年10月21日

教育再生会議の人選の基準がわからない?


 安部首相の肝いりで、教育再生会議がスタートした。教育の自由化がどんどん推進されていくだろうと思うが、この会議の人選の基準が、私には、わからない。中教審が、教育の専門家からなっているので、その反動で、こういう人選になったのだろうが、それにしてもどういう基準でこのメンバーになったのだろう。
 自由化推進論者を都合のいいように集めたのかと思えるほどだ。教育を真剣に考えてきた人間が少なすぎるように思う。教育基本法改正を視野に入れた人選のようにも思える。
 教育に競争原理を導入する議論は、活発になるだろうが、結論は大体見えている。競争原理導入になるだろうが、学校現場に全面的に競争原理を導入したら大変になることを誰が指摘するのだろう。場面場面で競争原理は必要だが、全面的に競争原理を導入すれば、弱者は、固定化するだけだ。そうなれば、今以上に、地域が混乱するだろう。学校から排除された子どもを誰が、面倒を見るのだろうか。そんな側面も、ぜひ、議論してもらいたいものだ。
 それにしても、この人選随分と安易過ぎないだろうか。


2006年10月09日

滝川市の教育委員会の対応に思う


 滝川市で1年前に起きた学校の教室での自殺の原因について、その遺族と滝川市の教育委員会との間で起きた感情的なしこりは、一つの象徴のように思う。それは、教育に携わる者の認識と一般の人たちの認識の相違を表している。
 今回の滝川市の教育委員会の対応は、常識的な対応だったのだろうか。卑しくも人に何かを教える人間を管理監督する機関の対応だったのだろうか。その地域の教育について責任を持つ機関の対応だったのだろうか。
 テレビで対応する滝川市の教育委員会の人間を見ていて、非常に情けなくなったのは、私だけではないだろう。それは、事の重大さを理解していない人間の対応に見えたからだ。
 教室で自殺を図ること自体の異常さとそのことでしか自分を表現できなかった児童の追い詰められた状況を、誰もが理解するはずだ。なぜ、教室で自殺したのか、自殺した原因が、教室にある可能性は、十分考えられる事態だろう。その前提に立って、手紙(遺書)を読んでみれば、そこにいじめがあることは、十分に想像できたはずだ。
 新聞記事を読む限り、自殺の原因は、いじめだと思うが、百歩譲って、自殺した原因が、直接的にいじめではなく、何か心因性の発作だとしても、教室で起きた自殺行為を教育委員会は、非常に重く受け止
めて、対処するべきだ。それなのに、なぜ教育委員会は、しっかりした対応をしていなかったのだろう。
 学校と教育委員会の関係、教師と教育委員会の関係が、対応のまずさを形成しているのではないだろうか。テレビで見る限り、滝川市の教育委員会は、学校や教師を守っているような対応をしている。穿った見方をすれば、教育委員会自体を守っているようにも見える。いじめのようなものはなかったと言い張ることで、この事件での責任の所在を隠蔽しているように感じる。管理不行き届きを同僚ぐるみで覆い隠そうとしているように見える。現場と教育委員会に同僚的癒着があるように感じる。もし、そういう意図がないのであれば、よっぽど、教育委員会の構成メンバーの学力レベルは低い!学校宛の手紙(遺書)の読解が出来ないのだから。
 今回の件は、教育委員会のあり方を問うべき事件だ。第三者的な機関として教育委員会が、学校からも教師からも独立して、指導できる土壌を作るべきだ。学校現場と教育委員会の人事的交流を制限することもその一つだ。そうしない限り、こういう学校での不幸な事件を解決できないように思う。



2008年10月
Su Mo Tu We Th Fr Sa
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

検索

ブログを検索:

会社概要  利用規約  お問合わせ

Copyright (c) 2006 link, Inc. All Rights Reserved.