教育基本法の改正について
教育基本法の改正が、どんどん現実味を帯びてきた。憲法改正の外堀として、教育基本法改正があるように思うのだが、誰もそのことを指摘しない。それは、憶測の域を出ないからだ。しかし、現実的なことを基にして考えてみれば、その憶測もそれほど、外れていないように思うのだが、どうだろうか。
まず、どうして教育基本法の改正をしなければならないのか、全くわからない。朝日新聞の9日の記事の中に、資生堂の相談役が、改正応援団長として、「社会が大きく変化し、物質的な豊かさが達成される一方、日本人の美徳が失われていると感じる。教育の再生は喫緊の課題で、教育の理念を定めた基本法の改正は当然、必要と考える」と書いてあるが、この内容を実現するために、教育基本法を改正する必要などないはずだ。
普遍的な教育の目標を規定している教育基本法を改正しなくても、日本人の美徳のようなものは、どんな教科でも教えられるはずだ。世界史を必修にするのならば、日本史と地理でも必修にして、日本の歴
史から自然の素晴らしさまで教えればそれで良いではないか。こんな理由で改正することは、随分無理がある。
また、教育自由化論者の若月秀夫・東京都品川区教育長も「戦後の学校教育が克服すべき課題として、児童生徒中心主義がある。改正案は戦後日本教育の足らざる部分がきちんと明記されている」と記事の中で改正に賛成しているが、この発言自体では、賛成の理由にならない。この発言は、改正することを前提に、新しい基本法案に賛成しているだけだからだ。しかし、そこを百歩譲ってみてみてもあまり説得力を持たない。
改正する理由が、児童生徒中心主義を克服するべきだとしているが、それが、改正理由になるだろうか。もし、そうだとすれば、戦前の教育の理念に限りなく近づいてしまう危険性があって、この理由では、到底納得できない。
改正賛成の客観的理由が、どうしてもはっきりしないのだ。戦後、アメリカによって作られたって、その理念が普遍的な価値をもっていれば、それで良いはずだ。つくった人間がどうのこうのではない。その理念に向けて、どういう教育ができるかだ。
国家から教育は自律してこそ、健全な市民が形成されるのに、国家に教育を隷属させてしまっては、建前も実質も、にっちもさっちも行かなくなってしまうはずだ。教育の本質的な機能(「他律的な人間を形成し、管理と選抜を行なう手段」を私たちは知っているが、教育の可能性(人間の偶発的な出会いや国家が管理できない人間的な経験などなど)まで、殺してはいけないように思う。
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