教育再生会議の答申に思う
この17年間の教育行政の流れの中で、今回の答申が、何を意味するのか、包括的に検討しなければならないように思うが、結局、国が目指したここ17年の教育改善ならびに改革は、80年代中盤に外圧で屈した学力偏重の教育をもう一度元に戻そうとすることだったように思われて仕方がない。
1975年当時の現代化カリキュラムに徐々に戻して、その上で、教育の複線化を潜在的に推し進めていくような流れにしたいのだと思うが、どうだろうか。
結局、教育制度を戦前の大衆教育とエリート教育の複線化の現代版にしたいのだ。だから、義務教育にまで、競争原理を導入して、複線化の下地を形成しようとしているのだ。そうでない限り、高度に成熟した日本で、国家維持の基盤である義務教育のインフラをズタズタにしてまで、競争原理を導入するわけがない。エリートの養成を最優先させて、教育基盤が多少は崩れても、国際社会の中で、日本が生き延びていくリーダーを養成しようとしているのだ。
しかし、その狙いは果たして日本のためになるのか!?そのことを徹底的に議論したほうが良いのに、その狙いを隠蔽して学力低下解消問題や教員の質向上の問題や教育の質の向上の問題にすり替えながら進行させているから、そのような議論には正面からはならないのだ。こんなインチキがあっていいのだろうか。またこの答申の中で、競争原理の導入をどういう視点で考えているのか見えない。競争原理の導入にどんなメリットとどんなデメリットがあるのか、議論を重ねただろうか。非常に疑問が残る。何を基準にした競争原理の導入だろうか。
少なくても、有識者といわれる方々が、議論しているのだろうから、何人かの方は、国家の横暴に対して批判的な視点を持って、会議等に臨まれているはずだから(そんな人は、選ばれるわけがないか!)、そんなに教育行政の言いなりになっているわけではないだろう。今までの学校教育の中で、弊害と思われているものの解消のために競争原理の導入になるだろうから、その弊害を解消するような競争基準を選んで欲しいものだ。
答申の中で、「成果」 という文言があったが、その「成果」とは、何を指すのか。この「成果」の基準を価値転換してしまったら、非常に有意義なものになるように思う。たとえば、答申が念頭においている「成果」とは、学力向上(=テストの点数向上)だろうが、生徒のモチベーション向上に対するものだったり、地域活動の推進状況だったりすれば、どうだろうか。
児童・生徒の学校における活動・児童・生徒の地域における活動が、活発化することが、学校の評価軸になれば、国家の教育行政の狙いを超えて、国家の一員としてさらに良い教育効果をもたらすように思うが、どうだろうか。
安易な競争原理の導入は、一元的な価値が支配するから、実は、画一的な教育になり、画一的な構成員を創り出してしまう。こんなことは、20世紀を生きてきた教育学者であれば、誰でもが知っている学術的な真理だ。それなのに、そういうことに触れない答申を私たちは、安易に信じてはいけない。触れないのには、大きな意味があるのだ。教育再生会議には、大きな意図が隠されているかもしれない。その意図を私たちは、明確にしながら、答申案を議論するべきだと思う。
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