文科省の騙まし討ちを思う!
こんな騙まし討ちがあるだろうか。「愛国心」という言葉をめぐっては、この数年間議論をし、ある種の問題を感じたからこそ、文科省はじめ与党も中教審も使用を控えていたにも関わらず、こんな形で、いとも簡単に学習指導要領の中に入ってしまった。中教審の答申が、「改正教育基本法」の名の下に簡単に変えられ、突然、私たちの教育現場に入ってくるのだ。
「愛国心」の問題は、私のメルマガで何度か取り上げたが、生徒の心情をコントロールする意図をもって、教育の目的にしてしまうのが、問題なのだ。こういう文言が学習指導要領の中に入れば、踏み絵になっていく可能性がある。東京都が、今必死になって不起立教員を吊るし上げているが、それと同じことが行われる可能性がある。
ことに、道徳の時間でのことだからなおさらである。そしてこの指導要領から道徳の時間は、従来とは違って、さらに踏み込んだ指導になっていくことになるから、こういう文言が入ってしまうことに非常に大きな危惧を持っている。
旧教育基本法でも改正教育基本法の第十六条でも「教育は、不当な支配に服することなく」とあるが、それは、どんな政治体制からも教育は、自由を保障されていると解釈してよいはずだが、こんなに簡単にこの解釈を踏みにじってしまって、今後この解釈が守られるのか、非常に疑問だ。その時代時代の与党が、ドンドンと自分の都合のよいような、解釈を繰り返し、道徳の時間を教科としての「道徳」にして、子どもたちのマインドをコントロールしていきそうで怖い。
結果的に、郷土を愛し、地域社会を愛し、ある地理的単位としての領土を愛し、みんなを愛することが出来るように、私たちが生きる生活世界を向上させていくのなら何も文句はないが、教育という武器で、マインドコントロールに傾いていくのは、黙って見過ごすわけには行かない。
私たちの教育の目的は、一人前の大人になっていくことで、自分で判断し、自分で行動していけるようになることだ。それも、社会の一員として。このことと「愛国心」の問題は、同じではない。無批判的に国を愛するようになってはいけないのだ。そういう批判能力を封殺してしまうような、教育状況を作ってはいけないのだ。自己批判できる能力を身につけてこそ、教育に価値が出てくるのだから。



