秋葉原無差別殺人事件に思う。
まず、犠牲者の皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。またその関係者の方に、お悔やみ申し上げます。こんな事件が、二度と起こらないような社会にしなければなりません。そのために、この事件で考えたこと思ったことを教育の側面から書きたいと思います。
下記のものは、6月4日に加藤本人が、書き込んだものだ。(読売新聞からの抜粋)
5時51分 親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから 勉強は完璧
5時52分 親が周りに自分の息子を自慢したいから完璧に仕上げたわ けだ
5時53分 中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた
5時55分 中学では小学校の「貯金」だけでトップを取り続けた 中学から始まった英語が極端に悪かっ たけど、他の科目で十分カバーできてたし
5時57分 当然、県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ 高校出てから8年、負けっ放しの人生
5時58分 自分で頑張った奴に勝てるわけない
この書き込みを見て、私は、この事件は、親に対する復讐なのではないかと思った。それほど、この書き込みには、子どもと親の断絶が感じられるし、子どもの親に対する憎しみが、感じられる。
加藤容疑者の両親は、教育熱心だったのだろう。子どものために必死に関与して、勉強を見ていたようだ。この書き込みを見ると「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り」と親の勉強に対する強い関与と子ども時代に勉強等で注目を受けたことが書いてある。
多分、その頃の加藤本人は、そんな自分と親の関係をそれほど気にしていなかったのではないだろうか。むしろ歓迎していたのではないだろうか。しかし、中学生になってからは、その親の勉強に対する強い関与だけでは、小学校時代のようには、行かなくなっていったのだ。そして、自慢の息子の地位から段々外されていったのだろう。
だから、彼は、「中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた」と書いたのだ。この頃から、徐々に操り人形としての自分から脱却しようとしたのではないだろうか。多分、高校進学でもきっと彼
には、葛藤があったのだろう。このままでは、親の期待には応えられないと。
しかし、親の期待と自分のプライドで、県内トップ高校へ進学したのだが、高校生になってからは、学力競争についていけずに、劣等感が植え付けられていったのかもしれない。そして、大学進学では、親から決別することになる。もう、親の言うことを聞く必要がないからだ。落ちこぼれの自分に親は必要ないと思ったのだろう。優越感や劣等感の源泉も実は親の評価だったのかもしれない。
今回の書き込みは、その当時の感情ではなく、大人になってから子ども時代を振り返った時点で考えていることだ。あのころ、親の操り人形になっていなかったら、こうなっていなかったという思いが感じられる。親の言うなりになって、したくもない勉強をやらされていた自分が、勉強を「自分で頑張った奴に勝てるわけない」と振り返るのだ。
この事件は、人生に負け続けた人間が、その人生の最後で、誰かに注目されたいという思いが、起こさせたものかもしれないし、最後の彼の自己顕示欲が起こしたものかもしれないが、彼のこういう人生を決定付けた両親に対する復讐だと思えないこともない。親にしてみれば、良かれと思って、教育に強く関与したのだ。こんな結末では、救われないだろうし、子どもである加藤容疑者自身も救われるものではない。
私たちは、子どもと勉強についてもう一度考えてみるべきかもしれない。勉強は子どもが自律するための、道具だ。勉強ができるようになることが目的ではない。勉強は、子ども時代に目の前にある課題なのだ。その目の前にある課題に誠実に取り組むことを子どもに要求するだけだ。勉強の結果を評価するために、勉強をさせることではない。勉強を競争の道具にしてはいけない理由もここにあるのだ。自律を促すものが、勉強以外にあるのならば、それでもいいのだ。その程度のものが勉強だ。そう考えて見ることも重要なことだ。
学校で優秀な成績をとることが勉強する目的ではない。勉強ができるできないを親が評価して、優越感や劣等感の源泉にしてはいけない。そのために、勉強をどう考えるかを私たちは、もう一度考えてみることだ。大人になってから、勉強することができるようにしてあげればよいのだ。その程度のものなのだ。勉強なんて。
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