<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
    <title>教育羅針盤</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/" />
    <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/atom.xml" />
   <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2</id>
    <link rel="service.post" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2" title="教育羅針盤" />
    <updated>2010-09-06T09:53:40Z</updated>
    
    <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type  3.2-ja-2</generator>
 
<entry>
    <title>叱る時は、命を賭けて叱る！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/09/post_75.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1080" title="叱る時は、命を賭けて叱る！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.1080</id>
    
    <published>2010-09-06T09:50:16Z</published>
    <updated>2010-09-06T09:53:40Z</updated>
    
    <summary>私は今まで叱ることについて、あえて触れてきませんでした。それは、日常的に子どもに...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        私は今まで叱ることについて、あえて触れてきませんでした。それは、日常的に子どもに小言を言っているだろうし、親が子どもを叱る時は、真剣に叱っているだろうから、叱ることをそれほど取り上げなくてもいいと思っていたからです。
　しかし、ここ数回、保護者の方と面談していて、子どもに対しての姿勢が、どうも人ごとのようになっていることに気がついたのです。「あなたのことなんだから、しっかり考えてあなたが決めなさい」というよ
うな発言を保護者の方がする場面が何回となくあります。その発言を聞く度に、わたしは、ここで叱ってこそ、親なんだけどな！と思うのです。
　例えば、子どもが高校を中退しようとする時に、親が、真剣に子どもに問うことです。そして、もし子どもの判断が安易なところに傾いたら（子どもが自分の将来に対して本気で考えないで判断していたら）、当然、親は子どもを真剣に叱ることです。子どもの目を見据えて、全精力をかけて、叱ることです。最近、そういう場面がないのです。
　教師と生徒でも余りありません。先日、私は、大人が真剣に叱るとはどういうことかを伝えたくて、あるクラスの男子生徒を真剣に叱りました。その生徒の目を見据えて、あらん限りに声を張り上げ、校舎全体に響き渡る声で。
　私の真剣さをそのクラスの誰もが、認めてくれ、それ以後、クラスの姿勢がよくなりました。当然、その男子生徒もがんばるようになりました。命を賭けて叱ることが大切なことなのです。ですから、しょっちゅう、叱ってはいけないのです。
　叱る時は、命を賭けて叱る！
        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>あまりにも無責任すぎる！業務委託契約！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/08/post_74.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1065" title="あまりにも無責任すぎる！業務委託契約！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.1065</id>
    
    <published>2010-08-09T07:56:15Z</published>
    <updated>2010-08-09T08:01:35Z</updated>
    
    <summary>8月4日に、朝日新聞の「英語助手と先生、授業協力したら違法　契約巡り現場混乱」と...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        8月4日に、朝日新聞の「英語助手と先生、授業協力したら違法　契約巡り現場混乱」という記事を読んだ時に、二つのことが頭に浮かんだ。一つは、行政の怠慢。経費削減と言うよりは、英語教育に責任を負わない体制。もう一つは、現場の教師の英語力に不安があって、現場で実際的な指導ができない問題。
　業務委託ということは、業者に丸投げだということだ。オーラルコミュニケーションとしての英語の授業を全て、業者に任せてしまって、後は知らない振りをしてもいいという契約が、業務委託と言うものだ。
　だから、教育効果に関して、現場では誰も責任を取らないということだ。これが、無責任体制だと言わずして何というのだろうか。教育委員会が、現場の教師出身者で構成されているということから考
えても、現場の事情は分かっているはずだ。だとすれば、現場でＡＬＴに注文も付けられない契約が、教育的に問題があることぐらいは分かるはずだ。教育委員会は、レッスンプランは前もって検討できるからいいとするかもしれないが、実際運用してみて、初めていろいろな問題が出くるだろう。
　そして、現場で臨機応変に対応しなければならない事態になることもあるはずだ。このぐらいは、誰だって予測できるはずだ。
　つまり、経費の問題と天秤にかけても、業務委託契約をやることは、無責任になってしまうことになる（結果的に）。業務委託は、子どもたちの教育を丸投げする発想だと言われても仕方がないと思うが、皆さんはどう思うだろうか。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>子どもの出来ている点や長所に注目する！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/07/post_73.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1048" title="子どもの出来ている点や長所に注目する！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.1048</id>
    
    <published>2010-07-12T06:38:56Z</published>
    <updated>2010-07-12T06:48:59Z</updated>
    
    <summary>　子育ての中で、重要なことの一つが、多様な価値観の容認です。子どもを自分の代理と...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　子育ての中で、重要なことの一つが、多様な価値観の容認です。子どもを自分の代理として子育てしている親が多いのは、不幸なことです。そういう親は、自分のコンプレックスを子どもを代理にして解消させようとすることが多いので、価値観が親の価値観に一元化して、子どもを追い詰めることになる場合があります。
　たとえば、学歴で苦労した親は、子どもには、そんな苦労はさせたくないから、学歴という価値観で一元化させて子どもを見てしまいます。だから、勉強に対して非常にナーバスになって、子どもをみていくことになるのです。
　こういう状況は、子どもにとっては辛いことです。そういう時に、子どもの何に注目したらよいのか、今回は、そのことを考えてみます。
　私は、子どもの当たり前に出来ることに注目してほしいと思っています。お母さんもお父さんも、隣近所の小母さんも小父さんも総動員して、自分の子どもが当たり前に出来ているところを意識して承認してほしいのです。そして、それを子どもの長所だと信じて育ててほしいのです。
　どういう子どもでいてほしいか、人それぞれ思っていることは違うでしょうが、子どもの悪い点に注目しないで、出来ている点、長所をまずは伸ばすことに力を注いでほしいのです。そして、その次に、親である自分の価値観を子どもに伝えていくことです。
　その時に、忘れてはならないのが、自分の価値観だけが、すべてではないということです。子どもには子どもの価値観が、既に小さいうちからあります。その価値観を全て否定して、自分の価値観の押し付けを行なっても、上手く伝えられません。多様な価値観を容認しながら、子どもを育てることです。
　子どもの長所に注目して、育てていくと、子どものセルフ・エスティームが高まっていきます。そうなれば、子どもは自分の価値観だけではなく、他人の価値観を容認することがしやすくなるのです。セルフ・エスティームが低い子どもに親の価値観の押し付けても、子どもは、それをなかなか受け入れないばかりか、子どものセルフ・エスティームは萎えてしまって、自信喪失に繋がってしまいます。そして、いつも親の顔色を見て過ごすような子どもになってしまいます。
　ですから、子どもの長所に注目し、子どもが失敗しても、悪いことをしても、でもあなたの良い点を私はしっかりわかっているのよ！というメッセージが与えられるような親になってほしいと思います。その上で、子どもを叱ってほしいのです。
　子育てが子どもの可能性の拡大に繋がるためには、子どもの長所を伸ばす以外にはありません。
　短所の矯正は、子どもの自信を奪っていくだけです。子どもの長所に注目してほしいのです。
　そうすれば、子どもは元気になっていくはずです。
　ぜひ、子どもが当たり前に出来ている点に注目してください。



        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>反映的な聴き方を心がけよう</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/06/post_72.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1034" title="反映的な聴き方を心がけよう" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.1034</id>
    
    <published>2010-06-21T06:48:45Z</published>
    <updated>2010-06-21T06:56:00Z</updated>
    
    <summary>　今回は、子どもの感情を理解する話の聴き方について考えます。、どういう対応を子ど...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　今回は、子どもの感情を理解する話の聴き方について考えます。、どういう対応を子どもにすれば、子どもが話しをしてくれるのかを考えてみます。そのためには、反映的な聴き方というのが非常に役に立つはずです。
　反映的な聴き方というのは、子どもの話す内容から子どもの気持ちだと思うものを言葉にして投げ返すというものです。子どもの気持ちが、嬉しそうならば、「嬉しかったの？」とか、悲しそうならば、「悲しかったの？」というように言葉にして子どもに返してあげることです。

　例で言えば、こんな会話です。

　子ども：「お母さん、明日から学習塾行かないよ！」

　母さん：「どうしたの？」

　子ども：「塾の先生が嫌なんだよ！」

　母さん：「先生に何か怒っているの？」

　子ども：「そうだよ。あの先生、えこひいきするんだよ！」

　母さん：「先生がえこひいきするから、怒っているのね？」

　子ども：「そうじゃないんだ。僕の間違った答えをみんなに言ったんだ」

　母さん：「恥ずかしかったのね」

　子ども：「うん、・・・」

　子どもの気持ちを親が類推して、子どもに投げかけることで、子ども自身が自分の感情に気がつきます。そうすると、子どもの中でその感情を処理することが出来、子どもの感情的なしこりが消えていく場合があるのです。そういう時に、この反映的な聴き方が、有効になってきます。親が子どもに対してなんでもかんでも解決しようとしなくて済むようになります。
　子どもの感情に集中して話を聴いてみましょう。そのためにこの反映的な聴き方を試してみてください。


        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>新自由主義が、教育を滅ぼすかもしれない！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/05/post_71.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1008" title="新自由主義が、教育を滅ぼすかもしれない！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.1008</id>
    
    <published>2010-05-06T11:52:27Z</published>
    <updated>2010-05-06T12:00:31Z</updated>
    
    <summary>　読売新聞の５月２日号に「教員人事権移譲、条例で…文科省見解」というものが載った...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　読売新聞の５月２日号に「教員人事権移譲、条例で…文科省見解」というものが載った。記事を要約すると、今まで都道府県で行なっていた教員の人事権を市町村に移管させていくことが可能になるということだ。
　
　「文部科学省は、公立小・中学校の教員の人事権を現行法を改正せずに、都道府県から市町村に移譲できるとの見解をまとめた。人事権移譲を盛り込んだ条例を都道府県が制定することが条件となる。教員人事権の市町村への移譲は、大阪府の橋下徹知事が「住民に最も近い自治体が教員人事を担うべきだ」として認めるよう求めていた。文科省が正式な判断を示したことで、今後、教員人事権の移譲を求める市町村が出てくる可能性もある。」

　この記事を読んで一つの懸念を私は感じた。確かに、現行の制度は複雑で、市町村が教員の服務管理を担うが、採用や人事については、県がそれを担い、国や県がその人件費を負担している。この制度は、県費負担教職員制度と呼ばれるが、この複雑な制度をシンプルにして、直接服務管理を行う市町村が人事権も掌握するというのは、一見非常に良いことに見える。教員の質についてもある程度担保されるかもしれない。採用した責任が、もろに降りかかってくるのだから。
　がしかし、この試みは、結局は、市町村に財政的な負担を強いるように発展していくだろうから、市町村の首長の経営手腕によって、非常に大きな格差を生む可能性があるように思うがどうだろうか。教育の機会均等と教育の質の確保ならびに向上を狙いに始まったこの現行制度（小泉政権下での三位一体改革で県の負担分が増えて、地域格差が生じることになったが）を、完全に変えてしまう危険性がある。
　もし、市町村に財政的な負担を強いることになれば、地域における教育格差は、現行以上に拡大することになって、義務教育のインフラが崩れてしまうことになりかねない。そうなれば、日本の国力にとって大きな痛手になるはずだ。義務教育に新自由主義的な競争原理は、必要がないものだ。サバイバル競争のような競争ではなく、スキルを競いあって、お互いが高めあうものにしなければならないのだ。そのことと食うか食われるかの競争は全く次元が違うものだ。それを混同したような施策を安易に打つものではないと思うがどうだろうか。義務教育のインフレが崩れないような施策も考える必要があると思う。そうしなければ、この提案は、ちょっと怖い。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>子どもに対してどう臨むのか！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/04/post_70.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=1003" title="子どもに対してどう臨むのか！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.1003</id>
    
    <published>2010-04-27T08:53:25Z</published>
    <updated>2010-04-27T08:58:10Z</updated>
    
    <summary>　学習塾の先生から二つの相談を受けた。 　一つは、中学校２年生の男子とそのお母さ...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　学習塾の先生から二つの相談を受けた。
　一つは、中学校２年生の男子とそのお母さんのことだ。その中２の男子は、テニス部に入っているが、勉強はいい加減で、よく塾を休むそうだ。部活で疲れると塾を休み、部活の朝連があると塾を休むそうだ。お母さんに言っても、暖簾に腕押し状態で、お母さんも子どもの要望を受け入れて、子どもを指導することはないようだった。こんな生徒と親にどう指導していけばよいのかという相談だ。
　もう一つは、子どもに無関心な親に対する相談だった。
　子どもは中学３年生の女子で、この子どもが何をしようが、全く関心を持っていない親なのだ。勉強も部活動も高校進学も、全部自分で決めなさいという親だ。だから、塾でお母さんと話をするのだが、「全て子どもに任せてあるので、子どもに聞いてください」と言うばかりで、話にならないそうだ。
　私が、この二つの相談に対して共通しているなと思ったのは、この親たちは、子どもに対して、愛情を持っていないということだ。
　一つ目の相談の親は、子どもに対して非常に甘いので、子どもとの軋轢は生じないが、子どもが、いろいろな障害を乗り越えていくことができなくなるし、結局、他の子どもがやっていることをやれないまま成長してしまう。つまり、現実とどう折り合いをつけていくかということを子ども自身が学ばないで大きくなっていくことになるのだ。こんな不幸なことはない。
　二つ目の相談も子どもに全てを任せることで、子どものセルフ・エスティーム（自己重要感）が損なわれる可能性がある。自分の親が自分に関心を持ってくれないのだから。そして、大人のアドバイスがもらえないのだ。こんな辛いことはない。どちらも、子どもの成長を願っていないのだ。
　アドバイスとして、子どもには、「自然の結末」と「論理的な結末」を体験してもらうしかないので、しっかり指導していくことをアドバイスした。親には、子育てを避けている原因をしっかり聞くことをアドバイスした。そして、子どもにどんな大人になってもらいたいのかを聞いて、そういう大人になってほしければ、こういうアプローチをとった方が良いのだとアドバイスをしたほうが良いとアドバイスした。

『親がいなければ子どもは育ったない！そう思って、子どもに関心を持つこと！』

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>子どもに罰を与えない！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/04/post_69.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=998" title="子どもに罰を与えない！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.998</id>
    
    <published>2010-04-24T07:34:29Z</published>
    <updated>2010-04-24T07:37:48Z</updated>
    
    <summary>　私たちは、ついつい子どもを叱ってしまいます。たとえば、テーブルの上のグラスを倒...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　私たちは、ついつい子どもを叱ってしまいます。たとえば、テーブルの上のグラスを倒して、牛乳をこぼしてしまえば、何をやってるの！と子どもを叱ってしまいます。部屋が汚いから、部屋のおもちゃを片付けなさいと注意しても、子どもがなかなか部屋を片付けなければ、おもちゃをゴミ袋に詰め込んで、捨てるまねをします。子どもを脅しながら、部屋を片付けさせようとするのです。それほどさように、私たちは、様々な罰を子どもたちに使って、指示・命令を子どもたちに行使しています。
　しかし、この罰を使って子育てをしていると、思わぬ弊害が出てしまう場合があるのです。今回は、その罰の弊害を考えたいと思います。


『罰の好ましくない効果』
　　　
◇罰を使って、子育てをしていると、次のような弊害が起きる可能性があります。

１．罰する人がいなければ、子どもたちは、不適切な行動を取ってしまいやすくなる。
　　子どもたちは、罰する人と罰しない人を区別するようになって、人の顔色を
　　見ながら、自分の行動を取ってしまうようになる。罰する人がいなければ何を
　　してもいいと思うようになる可能性がある。また、親の判断に依存的になって、
　　何をやるにしても親の言うことを聞くようになってしまう可能性がある。

２．不適切な行動を罰するだけでは、適切な行動を学べない。
　　不適切な行動を罰するだけでは、適切な行動を学習できない。子どもの行為を
　　罰するだけでは、行為をするという意欲も失われてしまう可能性があるので、
　　不適切な行動をしなくなるが、適切な行動もしなくなる可能性がある。

３．罰も子どもの行為に関心を示す一つの行為になるから、不適切な行為を強化する
　　可能性がある。
　　親に無視されるよりは、罰せられることで、自分に関心が向くので、子どもは、
　　関心を引くことに成功したことになっていまい、不適切な行為が続く場合がある。
　　
４．罰を与えると親を憎むようになる。
　　子どもは親に愛されたいが、親から罰を与えられ続ければ、親を憎むように
　　なる。愛している親を憎むようになれば、その憎しみは、非常に深いものになる
　　可能性がある。

　自分のストレス解消のために子どもに八つ当たりしながら、子育てをしている親はいないと思いますが、罰を使う頻度が多くなっていれば、その弊害が出る可能性があります。罰による子育ての比率を極力下げるように意識してみてください。

　『恐怖で子どもを動かしてはいけない。罰を子どもに与えても何も生むことはない！』

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>子どもに感謝しよう！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/04/post_68.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=984" title="子どもに感謝しよう！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.984</id>
    
    <published>2010-04-03T06:41:04Z</published>
    <updated>2010-04-03T06:43:45Z</updated>
    
    <summary>　私が、理事を務める私立高校の新入生ガイダンスが、４月１日にあった。そのガイダン...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　私が、理事を務める私立高校の新入生ガイダンスが、４月１日にあった。そのガイダンスで、保護者に方に、私の方から、約３０分お話をさせていただいた。今回は、そのことを書こうと思います。

　皆さん、目を瞑ってください。そして、お子さんが、生まれた時のことを思い出してください。どうですか？思い出していますか？
　あの時の感動を思い出せましたか。あの時、皆さんは、自分の子どもが生まれて、感謝したはずです。「生まれてきてくれてよかった！ありがとう！」そう思ったでしょう？子育てで、ちょっと子どものことでイライラしたら、思い出してください。

　次に、生まれてから１歳までのことを思い出してください。皆さんは、今では当たり前にやっていることをその当時は、お子さんに全くしていないのです。それは、何だと思いますか？

　それは、叱るということです。１歳までの間では、基本的に赤ちゃんは叱られないのです。いつもほめて、認めて、笑顔で、コミュニケーションを私たち親は取っているのです。それは、赤ちゃんが１歳前後になった時に起こる大事件の準備のためです。その準備のために、勇気を与え、自信を与えようと私たち親はしているのです。赤ちゃんが、一人で立つという事件の準備のために。自立するために、私たち親は、赤ちゃんのセルフ・エスティーム（自己重要感）を高めておくのです。そうやって、子どもは第一の自立をするのです。

　次は、第二の自律を子どもにスムーズにしてもらうようにしなければなりません。ぜひ、子どもの当たり前にできていることを認めてください。叱るよりも、認めることです。そこから、子どものセルフ・エスティームは高まります。そして、自信をもって、親から自律していけるのです。ぜひ、お母さん、お父さん、このことを覚えておいてください。

　最後にもう一度、子どもに感謝しましょう。めぐり合った奇跡に感謝しましょう。そして、子育てに疲れたら、子どもが生まれた時のことを思い出してください。あの嬉しかった日のことを！

　『子どもがいるだけで幸せだったあの時を思い出し、子どもに感謝しよう！』

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>教員養成６年制について</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/02/post_67.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=960" title="教員養成６年制について" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.960</id>
    
    <published>2010-02-27T05:14:05Z</published>
    <updated>2010-02-27T05:25:29Z</updated>
    
    <summary>　民主党が政権をとって、教員養成６年制についての議論が出てきた。私は、教員養成６...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　民主党が政権をとって、教員養成６年制についての議論が出てきた。私は、教員養成６年制について、少なからず危惧をしているところがある。それは、教育の質的向上を目指す中で、教員養成という視点だけになってしまう可能性があるからだ。教員になる前の養成期間は、当然必要だが、それ以上に、教員になったあとのＯＪＴが非常に重要だと思うからだ。
　公立学校の教師であれば、研修が数多くあるが、それは、ＯＦＦ－ＪＴであって、現場での研修（ＯＪＴ）ではない。私立学校は、その学校の予算具合によって、研修がどうなっているかが決まってしまうので、なんともいえないが、ＯＦＦ－ＪＴとしての研修が多くあるだろう。
　それよりは責任ある立場に立って、ＯＪＴの場がしっかりあったほうが良い。教師の自律性を尊重するのは、二の次にして、先輩後輩の徒弟制度的なＯＪＴが、先ずは教師の質を保証するはずだ。そのためには、教員を増やす方向で、検討してほしい。
　そして、教員養成６年制を危惧する理由の２つ目は、優秀な人材を他の業界に抜かれてしまうかもしれないということだ。６年制にしてインターシップを活用するというのなら、４年制でもできるはずだ。１年は無理だとしても、大学３・４年で６ヶ月程度はできるはずだ。６ヶ月もやれば、ある程度は実態が分かるだろう。社会に出るのが、２年も遅れる必要はないのではないか。
　そしてもう一つは、教員採用試験が、蔑ろになってしまう危惧だ。採用試験を学科試験や常識問題だけではなく、リーダーシップを見極めるような、グループ活動をさせて、観察結果を合否の資料にするような、そういう総合的な採用試験をする方が、よっぽど、教員の質の向上につながるはずなのに、６年制を導入することで、採用試験が免罪符的なものになってしまいかねないと思うからだ。
　例えば、４年制の大学時に採用試験（＝従来どおりの採用試験）に合格し、そして大学院で２年学び、そして、現場に入っていくと言うことになれば、入口（採用試験）の吟味が甘いままになってしまうかもしれない。それよりは、採用試験の内容を総合的にして、高倍率だから受かりにくいというよりも、質的に難しいから受かりにくいと言う状況を取ったほうがいい。

　最後に私の考える教員の質の向上策は、３点だ。
　　１．教育実習の期間を６ヶ月にして、現場をある程度知る。
　　２．採用試験を総合的なものにする。
　　３．教員採用後に１年間は、ＯＪＴ期間とする。そのために、教員の
　　　　数を増やす。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>受験に失敗したら！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/02/post_66.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=942" title="受験に失敗したら！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.942</id>
    
    <published>2010-02-01T07:16:52Z</published>
    <updated>2010-02-01T07:27:53Z</updated>
    
    <summary>　首都圏では、中学入試がスタートした。今年も合格不合格に一喜一憂する毎日が始まる...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　首都圏では、中学入試がスタートした。今年も合格不合格に一喜一憂する毎日が始まる。第１志望校に合格した子どももそうでない子どもも、そして全部落ちて公立中学校に行く子どもも、まずは人生最初の関門を経験する。つまり、合格不合格に関係なく、中学入試を終えて新しい世界に入っていくことになるのだ。
　合格した子どもは、少しの間は、ちょっと休憩させてもいいし、次の夢の確認をしてみてもいいが、不合格になった子どもには、やはりケアが必要だ。受験校に落ちて、喜んでいる人間はまずいないから（表面上は強がっている場合があるが）、その痛手が個人によって違うにせよ、ケアをする必要がある。
　不合格の子どものケアをするのは難しいのだが、前提として親が子ども以上にショックを見せてはいけない。これがまず重要なことだ。そして何より子どもの悔しさを共有してやることだ。
　また、自分の失敗の体験やこの入試がゴールではないことや、こういう失敗の経験が多ければ多いほど、色々なことを学べるのだと話してやることだ。加えて、「もう一回入試を受けられるとすれば、今度は、どういう風に勉強したい」と聞いてみてもいい。
　入試で不合格になった経験を大切にすることが大切なのだ。

　　お母さん：残念だったわね。
　　Ａさん：・・・。
　　お母さん：Ａちゃん、元気出しなさいよ。
　　Ａさん：元気だよ。
　　お母さん：悔しいこと、悲しいことは、これから一杯あるわ。だから、今のこの悔しさや悲しさを覚えて
　　　　　　　　おくのよ。そして、次は、こんな悔しさや悲しさを体験しないように頑張るのよ。
　　　　　　　　そういう意味で、いつも結果は次のためのステップなのよ。元気だしてね。
　　Ａさん：ありがとう・・・。


　躓くことは悪いことではない。親が失敗に拘っていつまでも失敗を引きずっていることが、子どもに余計なプレッシャーをかけることになる。ぜひ、親から気分転換をしてほしい。子どもにはまだまだ人生の試練があるのだから。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>謹賀新年！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2010/01/post_65.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=928" title="謹賀新年！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2010:/blog/002//2.928</id>
    
    <published>2010-01-05T09:56:58Z</published>
    <updated>2010-01-05T10:01:43Z</updated>
    
    <summary>　明けましておめでとうございます！ 　２０１０年も「教育羅針盤」を宜しくお願いい...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　明けましておめでとうございます！
　２０１０年も「教育羅針盤」を宜しくお願いいたします。

　今年こそ、子どもが、夢や希望が持てるような社会へ向けての議論、そして夢や希望が持てるような大人へ向けての議論がしっかり出来ればと思います。

　教育が、子どものセルフ・エスティームを高めることに焦点が当てられるように、今年も頑張って発信していきますので、宜しくお願いいたします。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>子どもの良い点を承認しよう！メリークリスマスの贈り物</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2009/12/post_64.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=922" title="子どもの良い点を承認しよう！メリークリスマスの贈り物" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2009:/blog/002//2.922</id>
    
    <published>2009-12-24T09:45:17Z</published>
    <updated>2009-12-24T09:48:29Z</updated>
    
    <summary>　私たち親は、自分の物差しで子どもの行動を評価してしまうから、親の基準が甘い場合...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　私たち親は、自分の物差しで子どもの行動を評価してしまうから、親の基準が甘い場合と厳しい場合では子どものセルフ・エスティームの高さに違いが出る。
　親の評価基準が甘い場合は、子どもに対する評価が甘くなるから、セルフ・エスティームはそれほど低くならない。逆に親の評価基準が厳しい場合は、要求水準が高いから子どもが出す結果に親が満足することが少ないので、子どもに対して承認する度合いが少なくなる。その結果、子どものセルフ・エスティームは低くなってしまう。
　それでは、親の評価基準が甘い方がいいのかというと、そうではない。親が子どもにしっかり指導できないので、現実的な場面で、失敗が多くなって、結果的に子どものセルフ・エスティームが下がってしまう。
　だから、親の評価基準を甘くするのか厳しくするのかではないのだ。親が、子どもを評価する時は、親の基準で評価をするよりは、子どもの現状を基準にして子どもを承認するようにした方が良いのだ。どういうことかというと、例えば、子どもがテストで、１００点満点で３０点取ってきたら、先ずは３０点分を評価することだ。３０点分は分かっているということを認めてあげることだ。そして、その次に、７０点分をどうしたら取れるようになるかを一緒に考えることだ。
　子どもの結果をダメ出しばかりしていると、子どものセルフ・エスティームが下がってしまって、子どもは、自分の結果に自信が持てなくなって、結果を出すことを避けるようになるものだ。子どもの出来ている点に注目してほしい。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>子どもの年齢ごとにゴールを決めよう！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2009/12/post_63.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=909" title="子どもの年齢ごとにゴールを決めよう！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2009:/blog/002//2.909</id>
    
    <published>2009-12-01T09:02:10Z</published>
    <updated>2009-12-01T09:13:19Z</updated>
    
    <summary>　私たち親は、子どもをどういう大人にしたいと思って、子育てをしているだろうか。子...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　私たち親は、子どもをどういう大人にしたいと思って、子育てをしているだろうか。子育てのゴールを持つことは、非常に重要なことだ。そのためには、子どもの年齢ごとにステージを決めて、こういう子どもにしたい、という段階を設定することだ。
　例えば、こんな感じでステージを設定してはどうだろうか。
　　０～１歳：子どもと四六時中いる
　　１～３歳：徐々に親以外の大人や子どもと関係をもつ／挨拶などの基本的な行動が取れる
　　３～６歳：友だちと楽しく遊べる／挨拶などの基本的な行動が取れる
　　６～９歳：友だちと意見を言い合える／挨拶などの基本的な行動が取れる
　　９～12歳：困っている友だちを助けることが出来る／挨拶などの基本的な行動が取れる
　　12～15歳：自分の目標が設定でき、その目標達成に向けて努力できる／挨拶などの基本的な行動が取れる
　　15～18歳：みんなの目標に参画し、その目標に向けて努力できる／挨拶などの基本的な行動が取　れる
　これは、私が子どもたちにそうして欲しいと思って、子どもたちに課している設定だが、皆さんは、それぞれ自分の考えで、自分の子どもがどうなって欲しいかという視点で設定すればよいと思う。
　また、私のこの例では、主に社会に個人として参加することを念頭において設定してあるが、個人の内面的な目標設定を加味しても構わないと思う。しかし、個人の内面的な設定だけでは駄目だ。子どもは社会の一員として大人になっていくのだ。
　ぜひ、社会に子どもが参加した時に、スムーズに参加できるような目標設定をしてほしい。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>少年犯罪に思う</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2009/08/post_62.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=847" title="少年犯罪に思う" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2009:/blog/002//2.847</id>
    
    <published>2009-08-21T09:19:48Z</published>
    <updated>2009-08-21T09:25:21Z</updated>
    
    <summary>　読売新聞に、「奈良の同級生殺害、家裁が少年の逆送決定」という記事があった。その...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　読売新聞に、「奈良の同級生殺害、家裁が少年の逆送決定」という記事があった。その記事を読んで、少年犯罪について社会の姿勢を考える時期に来ているのではないかと思った。
　少年犯罪について、特に少年の殺人事件について考える時、被害者と加害者の両方を考慮しなければならないが、今までは明らかに加害者を慮っていたような状況があった。２００７年の少年法の改正によって、加害者に対して多少厳格に対処するようにはなったが、それでも保護更正の立場から、少年の更生機会を考慮した処罰になっていることに変わりはない。しかし、意図を持って殺人をした事実を被害者側から考えてみれば、大人も子どももない事件として、当事者は死に、その家族は、深い悲しみとやり場のない怒りを感じることに変わりはない。人が一人死ぬことの事実を私たちは、もう一度考え直した方が良いのではないかと思う。
　この読売新聞の記事だが、検察官送致の判断は、当然だと思う。こういう事件になると必ず精神鑑定が要求され、裁判官はそれを受け入れるケースも多々あるが、そういう問題ではないだろうし、そういう問題に安易に逃げない方が良いように思う。私としては、意図的な殺人に関しては、成人も少年もないものとして裁判されるべきことではないかと思うことがある。特に、義務教育を終えた１６歳以上の少年の場合は、そう思うことがある。私たちは、最低、どんな年の人間にも殺人の不当さを徹底することだ。少年だから許される範疇に殺人は入っていないのだ。そのことを社会としてどう表現していくか、しっかり考える時が来ていると思うが、いかがだろうか。

        
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>校長の権限を拡大するか、校長になるプロセスを変えること！</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.jyuku-go.com/blog/002/2009/06/post_61.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.jyuku-go.com/blog/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=807" title="校長の権限を拡大するか、校長になるプロセスを変えること！" />
    <id>tag:www.jyuku-go.com,2009:/blog/002//2.807</id>
    
    <published>2009-06-22T08:07:14Z</published>
    <updated>2009-06-22T08:16:53Z</updated>
    
    <summary>　少し前の新聞に、大阪府の橋本府知事が、３０歳代でも学校長になれるように人事制度...</summary>
    <author>
        <name>中土井　鉄信</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.jyuku-go.com/blog/002/">
        　少し前の新聞に、大阪府の橋本府知事が、３０歳代でも学校長になれるように人事制度を改めるという提案の記事が載った。学校長に若手を起用するのは、非常にいいことだ。しかし、学校長の権限を拡大しない限り、若手が力を発揮することは、難しいように思う。若手の起用は、多分、古いしがらみや考え方に囚われることがない分、柔軟的な思考や行動が出来ることを期待してのことだろうが、そういう力を発揮するためには、年長教師が、組織上のラインに乗って動くことが、前提になる。間違っても「あなたの考えはあなたの考え。私の考えは私の考え。だから、私は私の思うところを行なう。」というような風土では、若手校長が年長教師に指示を出すことは難しいだろうと思うし、実効性は低いものになるだろう。だから、そういう教職員の風土を改革するために、教員の自律性の問題にメスをいれ、校長の権限の拡大をすることだ。それと校長になるためのプロセスを変革し、現実的に実力が評価対象になるようにするべきだ。
　企業では、実力主義が貫徹しているから、若手の出世を認める雰囲気がある。彼だったら、実力もあるから彼の言うことを聴いてみようと年長社員も思うが、学校長の選考プロセスは、基本的に管理職試験によるもので、筆記試験と面接試験、勤務評定によるが、現場の活躍は、基本的には、大きく反映されない。その学校の教職員集団の承認によってなるものではない。その人の持っている知識や認識を問う形で試験を行い、それをパスして、教頭や校長になるのだ。これでは、リーダーとして正統性が保証されないのだ。この校長になるプロセスを変えることが重要だと思う。ここが、弱冠３９歳で府知事をしっかりこなしている橋本府知事と大きく違うところだ。橋本府知事が力を発揮できるのは、選挙で選ばれたという正統性があるからなのだ。
　校長になるためのプロセス改革を行い、そして校長の権限の拡大を行なって欲しい。そうすれば、若手に関わらず校長が力を発揮する下地が出来るはずだ。有名人が落下傘部隊のように降りてきて力を振るうことは出来るが、普通の人間が、急に指名を受けても学校長として力を振ることは難しいのだ。リーダーになるためには、それなりの正統性と権限が必要なのだ。

        
    </content>
</entry>

</feed> 

