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      <title>教育羅針盤</title>
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      <language>ja</language>
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         <title>入試を通過儀礼と捉えれば・・・。</title>
         <description>　神奈川県の公立高校で、見た目を理由に不合格にした事件がおきた。一見、驚きの事件だが、よくよく考えてみると、視点によっては、意外とそうでもない事件なのだ。今回は、この事件に就いて考えたいと思う。
　まず、事件を論じる前に、神奈川県の入試制度を簡単に説明しておく。神奈川県の公立高校入試は、
大きく分けて二つある。一つは、前期選抜試験＝内申点と面接や小論文で、合否を判定する。その選考基準が、各学校ごとに公表されていて、ある程度客観性のある基準になっている。入学試験はない。多分、この前期選抜では、上記のチェック項目を発動しても支障はない。もう一つは、後期選抜試験で、内申点と入試得点で後期選抜の定員の８０％を客観的に決定する。残りの２０％の定員（後期選抜）は各高校の選考基準を加味して合否が決定される。
　今回の事件は、後期選抜の内申点と入試得点で合格になった生徒を見た目で、不合格にしてしまったところにルール違反があったのだ。これは問題になっても仕方がない。このルール破りは、大きな問題だ。人権的な問題は言うに及ばず（差別的対応など）、基準を公表にしているのに、それを自ら守らないのであるから、これでは、教育機関として、生徒を指導することもできない。大きな問題なのだ。
　しかし、逆の側から考えると、問題のもう一つの本質は、生徒本人とその生徒の保護者にあることも事実だ。上記にあるチェック項目に触れるようなあり方で、入学試験に臨む方もまた問題なのではないのか、ということだ。
　人生の最初の難関とでも言える入学試験をどういう心構えで臨んだのか、このことを問題にしたい。近代以降、通過儀礼がなくなってしまったから、最近の入学試験は、昔で言う通過儀礼のようなものだ。子どもから大人に向かう一つの関門なのだ。この関門をなんと気楽に、子どもたちに臨ませたことだろう。
　私たちは、大人として、こんな子どもをしっかりどやしつけて、大人になる心構えを教えてやる役割がある。そういう意味では、この校長のやったことは、結果的には、良かったことだ。人生をなめるなよ！　ということを教える結果になったかもしれない。さらに言うならば、不合格になった理由をその場で言ってやれればよかったのだが・・・。
　入学試験を単なる入学の許可・不許可と考えるのではなく、通過儀礼だと考えることも必要なことだ。子どもが大人になる前の準備を昔は、しっかりしていた。大人になるとはこういうことだと子どもの身近にいた大人が教えていた。今は、それを教えるのは、親や教師だ。ぜひ、気概のある親や教師でいよう。それが、子どもにできる最大のプレゼントになるはずだから。
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         <pubDate>Fri, 31 Oct 2008 16:53:16 +0900</pubDate>
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         <title>教育格差を生んだのは、誰なのか！</title>
         <description>　新しい文部科学大臣が、いつまでその職に就いているのか分からないが、ぜひ、考えてもらいたいのが、「教育格差」と「経済格差」の関係だ。新しい大臣のインタビュー記事を読むと、大臣は、「経済格差」が「教育格差」を生むのは、高校以上からだと思っているふしがあるが、そんなことはない。
　経済格差は、基本的に教育格差に跳ね返ってくるのだ。教育が、社会構造の再生産装置である限り、親の経済力が、教育に反映し、教育格差を生む。経済格差と教育格差は、密接な関係にある。この点をしっかり理解してほしい。その前提で、教育格差を考えてみると、教育格差を最小限に抑えるためには義務教育が、非常に重要になるのだ。
　２００２年の教育改革のように、近年は「教育の自由化」を推し進めてきたが、その解消を徹底的に行なうことだ。学習指導要領のミニマムスタンダードをもう一度、マキシマムスタンダードに戻すことだ。最低限の水準で教えるのでは、経済格差が色濃く反映してしまうためだ。
　なぜならば、経済力のある親は、自分の子どもにさらに多くの知識を獲得させようと、学校外の教育投資を行なうからだ。教育の自由化は、高校以上からではなく、義務教育段階から、教育格差が大きくなってしまう結果をもたらす。この解消を考えることだ。
　教育格差を大きくしたのは、実は２００２年の教育改革なのだ。この点をしっかり認識して、文部行政の指揮を執ってほしい。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/10/post_50.html</link>
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         <pubDate>Fri, 03 Oct 2008 21:04:46 +0900</pubDate>
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         <title>デメリットにはメリットがある！</title>
         <description>　反抗期は、子どもが、自律＝自立へ向かう親離れの時期だ。今までの親子関係を脱して、新しい親子関係を築くための不安定な時期だ。反抗期に差し掛かった子どもは、今までの親子関係を無意識のうちに振り返って、大体３つのパターンでその時期を過ごす。
　一つは、愛情をしっかり受けて育った場合（甘やかして育てたとは違う）は、親子関係は、それほどこじれることもなく、子どもは大人になっていく場合が多い。もう一つは、ある程度愛情を受けて育った場合（＝どこにでもある親子関係）は、ちょっと反抗が強くはなるが、それほど問題ではないことが多い。そして、最後の一つは、幼少時に愛情を十分受けることなく、育てられた場合（親が子育てを放棄する寸前だったり、子どもに関心をもって接していなかった場合）は、子どもは、親の愛情を確認しようとするために、強い反抗を繰り返すことが多い。もし、親がそのことに気がついたら、今からでも遅くはないから、愛情を持って子どもに接してほしい。しかし、子どもの言いなりになれということではないので、勘違いしないでほしいが。
　子どもの親に対する反抗は、子どもにとっては、最終的にメリットになるから行なうのだ。叱られる＝デメリットは、叱られることでメリットになるから、叱られる行為を行なうのだ。このことを親はしっかり覚えておくことだ。親が、叱ることで親の愛情を確認しているかもしれないのだ。そして、そういう確認をとった後は、今度は子どもは、大人として親が自分を扱ってくれるかを試そうとしているかもしれないのだ。こういう風に考えて、子どもを見てほしい。そうすれば、子どもとの距離が出て、徐々に子どもの行動を理解できる可能性が出てくる。特に母親は、自分の分身として子どもを見てしまいがちだ。そうなると、子どもとどう接するかを分かっていても出来ないことが多い。だから、子どもと距離をとるためにも、子どもの行動には、無意識のメリットがあるからやってるんだなと思って、子どもの行動を見守ってほしい。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/09/post_49.html</link>
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         <pubDate>Mon, 08 Sep 2008 20:59:59 +0900</pubDate>
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         <title>北海道の高校生の自殺は、学校側の過剰反応が招いたものかもしれない！</title>
         <description>  学校の裏サイトが今問題になっているが、今回の事件は、その問題性に過剰反応した結果の事件ではないかと思う。
　自殺した生徒が、どういう中傷を他の生徒に書いていたのかわからないが（よほどひどかったのかも知れないが）、それにしても、「同校の生徒指導担当の教諭４人が２人ずつ、約２時間にわたって断続的に事情を聞いた」（読売新聞８月７日夕刊以下同様）のは、あまりにも大掛かり過ぎで、あまりにも度を越しているように思う。
　学校側から見れば、今問題になっている裏サイトでの出来事だったので、慎重に対応したのだろうが、それにしても過剰だったのではないだろうか。多分、この自殺した生徒の言い分や気持ちを無視した事情聴取が行なわれたのかもしれない。
　読売新聞の記事の中の「『殺す、死ね』と軽々しく書いたので、けじめをつけるために死のうと思う」という内容は、教師に対してのあてつけのように思える。学校の処分も、多分、昨今の風潮を配慮したものだったのだろうが、「停学処分」は、記事を見た限り、明らかに重たい。
　あくまで推測なので断言は出来ないが、学校や教師に対する社会的プレッシャーが、今回の過剰な対応を招いたように思う。学校や教師は、いつでも世間の風潮に乗ることなく、毅然とした態度をもってことにあたっていってほしい。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/08/post_48.html</link>
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         <pubDate>Sat, 09 Aug 2008 14:43:02 +0900</pubDate>
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         <title>教師という職業は自己言及的な職業なんだ！</title>
         <description>　今回の大分の教員採用試験に関する事件は、大分県だけの問題ではないように思う。教員採用試験に関してのこのような身内に対する贔屓は、2次試験では噂されていたことだ。今回の事件が、異常だとすれば、それが、1次試験から組織的に行なわれ、多額の金品が動いた点にある。それだけのことだ。だから、今回、この事件を取り上げたのは、この事件性に言及するためではない。それよりは、教師という職業に関して、以前とは全く違う職業観になってしまったことを考えたいからだ。
　その昔、教師は、聖職と言われた。他人の子どものために、必死になって面倒を見るからだ。自己犠牲を厭わないで、子どもと寝食をともにする役割だった。教師と言う人間が子どもの前でいつも問われていた。だから、教師は聖職といわれ、尊敬をされていたのだ。
　しかし、そういう聖職観が、教師を苦しめていたことも事実だ。だから、ここ３０年余り、教師も職業であって、それ以外ではないという風潮が出て、今日では、教師は一般のサラリーマンと同じ地位に落ち着いている。がしかし、それでも教師という職業には、他のサラリーマンとは違う、職業倫理が、求められるのだ。
　それは、子ども達に、自分の生き方を示しながら、接しなければならないという職業としての特殊性があるからだ。そういう特殊性を自覚しないまま、普通の職業だと思ったところに、この事件の原因がある。
　贈賄容疑で逮捕された夫婦はともに教師で、夫は教育委員会の幹部、妻は、小学校の教頭だ。妻だって、あと二年か三年すれば、校長職に任命されるだろう。教師としては、経験も積み、ベテランとして他の教師の模範にならなければならない存在の二人だ。
　その二人が、自分の娘のために、贈賄を図った。娘は、このことを知っていなかったと思うが（知っていたとすれば、こんなに馬鹿げたことはない）、教師と言う職業が、子ども達に大きな影響を及ぼす存在だとこの夫婦は、自分たちの経験から学ばなかったのだ（学んでいたら、こんなことをして娘が喜ぶとは思わないだろう）。
　そして、不正を犯しても、教師という職に就けばよいと思っていたのだ。兎に角、採用さえしてもらえれば、教師という職業は全うされると思っていたのだ。教師という職は、生活を支えるだけのものだという認識だ。この認識は、収賄容疑で逮捕された教育委員会幹部にも当てはまる。多分、自分たちがやっていたことは、不正だと承知していたはずだ。教師なんて、大した存在じゃないから、ちょっとぐらい採用試験で、手心を加えても、教師という職業の倫理に触れないと思っていたのだ。児童・生徒のために教師になるということではなく、自分のために教師になるという認識だ。教師と言う職業は、自分のためになるものだということだ。
　今回の事件で、日本の教育を司る人たちの意識が、垣間見える。こんな職業観では、日本の教育は、良くなるわけがない。教師と言う職業には、常に、自分たちはどうなんだ！という自己言及的な批判が付きまとうのだ。この視点を忘れて、教師になったとしても、それでは、教師と言う職業は、全うさ
れはしないのだ。大分県だけではなく、他県の教育委員会も文科省も襟を正してほしいところだ。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/07/post_47.html</link>
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         <pubDate>Fri, 11 Jul 2008 18:33:34 +0900</pubDate>
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         <title>秋葉原無差別殺人事件に思う。</title>
         <description>　まず、犠牲者の皆さんのご冥福をお祈り申し上げます。またその関係者の方に、お悔やみ申し上げます。こんな事件が、二度と起こらないような社会にしなければなりません。そのために、この事件で考えたこと思ったことを教育の側面から書きたいと思います。
　下記のものは、６月４日に加藤本人が、書き込んだものだ。（読売新聞からの抜粋）
５時５１分　親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから　　　　　　　勉強は完璧
５時５２分　親が周りに自分の息子を自慢したいから完璧に仕上げたわ けだ
５時５３分　中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた
５時５５分　中学では小学校の「貯金」だけでトップを取り続けた　中学から始まった英語が極端に悪かっ　　　　　　　たけど、他の科目で十分カバーできてたし
５時５７分　当然、県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ　高校出てから８年、負けっ放しの人生
５時５８分　自分で頑張った奴に勝てるわけない

　この書き込みを見て、私は、この事件は、親に対する復讐なのではないかと思った。それほど、この書き込みには、子どもと親の断絶が感じられるし、子どもの親に対する憎しみが、感じられる。
　加藤容疑者の両親は、教育熱心だったのだろう。子どものために必死に関与して、勉強を見ていたようだ。この書き込みを見ると「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り」と親の勉強に対する強い関与と子ども時代に勉強等で注目を受けたことが書いてある。
　多分、その頃の加藤本人は、そんな自分と親の関係をそれほど気にしていなかったのではないだろうか。むしろ歓迎していたのではないだろうか。しかし、中学生になってからは、その親の勉強に対する強い関与だけでは、小学校時代のようには、行かなくなっていったのだ。そして、自慢の息子の地位から段々外されていったのだろう。
　だから、彼は、「中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた」と書いたのだ。この頃から、徐々に操り人形としての自分から脱却しようとしたのではないだろうか。多分、高校進学でもきっと彼
には、葛藤があったのだろう。このままでは、親の期待には応えられないと。
　しかし、親の期待と自分のプライドで、県内トップ高校へ進学したのだが、高校生になってからは、学力競争についていけずに、劣等感が植え付けられていったのかもしれない。そして、大学進学では、親から決別することになる。もう、親の言うことを聞く必要がないからだ。落ちこぼれの自分に親は必要ないと思ったのだろう。優越感や劣等感の源泉も実は親の評価だったのかもしれない。
　今回の書き込みは、その当時の感情ではなく、大人になってから子ども時代を振り返った時点で考えていることだ。あのころ、親の操り人形になっていなかったら、こうなっていなかったという思いが感じられる。親の言うなりになって、したくもない勉強をやらされていた自分が、勉強を「自分で頑張った奴に勝てるわけない」と振り返るのだ。
　この事件は、人生に負け続けた人間が、その人生の最後で、誰かに注目されたいという思いが、起こさせたものかもしれないし、最後の彼の自己顕示欲が起こしたものかもしれないが、彼のこういう人生を決定付けた両親に対する復讐だと思えないこともない。親にしてみれば、良かれと思って、教育に強く関与したのだ。こんな結末では、救われないだろうし、子どもである加藤容疑者自身も救われるものではない。
　私たちは、子どもと勉強についてもう一度考えてみるべきかもしれない。勉強は子どもが自律するための、道具だ。勉強ができるようになることが目的ではない。勉強は、子ども時代に目の前にある課題なのだ。その目の前にある課題に誠実に取り組むことを子どもに要求するだけだ。勉強の結果を評価するために、勉強をさせることではない。勉強を競争の道具にしてはいけない理由もここにあるのだ。自律を促すものが、勉強以外にあるのならば、それでもいいのだ。その程度のものが勉強だ。そう考えて見ることも重要なことだ。
　学校で優秀な成績をとることが勉強する目的ではない。勉強ができるできないを親が評価して、優越感や劣等感の源泉にしてはいけない。そのために、勉強をどう考えるかを私たちは、もう一度考えてみることだ。大人になってから、勉強することができるようにしてあげればよいのだ。その程度のものなのだ。勉強なんて。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/06/post_46.html</link>
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         <pubDate>Fri, 13 Jun 2008 20:11:47 +0900</pubDate>
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         <title>「夜スペ」は、学校の目指すことなのか！</title>
         <description>　「夜スペ」に関しては、私は、非常に疑問を感じている。３月にＮＨＫの番組の休憩中に、たまたま藤原氏と「夜スペ」の話を一瞬した。藤原氏は、学校と塾の融合が素晴らしいという中身の議論をしていたが、この問題は、中身の議論ではなくて、手続きの議論が、大切なのだ。「夜スペ」を擁護する人たちは、地域本部が、中心にやっているのだから、問題はないと言っているが、そういう建前で、この問題を避けてはいけないように思う。
　今回は、前回起きた批判を解消しようと思ったのだろうか、３年生全員を対象に拡大して、「夜スペ」をやるというのだが、そうしたところで、問題は解決しない。前回は、一部の上位生徒を対象にしたサービスだから、不公平だとか、優遇だとか批判が出た。だから、そんな批判が出ないように、３年生全員に拡大したのだろう。しかし、そうしたところで、問題は解決しない。２４，０００円という月謝の高さが、もう既に払える家庭と払えない家庭を分けているからだ。
　また「夜スペ」は学校と学校に選ばれた学習塾の癒着と、なんら変わらない。学校を学習塾に貸すだけの問題ではない。学校を支える地域本部が、学校ぐるみで、学習塾の宣伝をし、その学校の生徒に「もっと勉強したい人は、『夜スペ』に来なさい！」と働きかけるのだ。そして、「『夜スペ』の授業が難しい場合は、個別指導で、丁寧に勉強を見ますよ！」とメニューを拡大して、生徒獲得をしやすくしたのだ。この状況が、問題なのだ。
　そして、さらに問題なのは、学校の生徒を二つの構造に分けてしまう可能性があることだ。つまり、学校の授業と土曜の補習、「夜スペ」のサピックスの授業と個別指導という二つの軸に、生徒を分ける構造になってしまうことだ。こういう構造になってしまうと、「夜スペ」に参加している生徒が、半分を超えた時点で、生徒の意識が分断される可能性がある。今は、３年生全体の３２％しか参加していないので、問題にはならないだろうが、半分を超えた段階で、学校の授業を中心に考えている生徒と「夜スペ」を中心に考える生徒が、明確に分かれて、多分上手い学校運営が出来にくい可能性があるのだ。
　最後にもう一つ。朝日新聞の記事の中で「中３の内容になるとボランティアで教えるには限界が」あるとあったが、本当にそうだろうか。学校の授業の補習なのだ。学校の授業で教えた内容について、補習をしているのだ。そういう視点で見れば、ボランティアの限界は、それほど問題ではないのではないだろうか。受験指導という観点で語っているようにしか見えないのだ。
　今回の試みをもっと問題のないものにしたいのであれば、こういう風にしてはどうだろうか。学校に学習塾が、教室を貸すのだ。家賃をしっかり取って。どんな学習塾にも、学校を開放して、学校は、ただの大家になればよいのだ。３年１組は、Ａ学習塾。３年２組は、Ｂ学習塾に教室を貸して、学校の夜間を有効活用すればよいのだ。当然、この学校の中の学習塾には、その塾が、許可すれば、どんな学校の生徒も通ってもいいということで。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/05/post_45.html</link>
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         <pubDate>Mon, 19 May 2008 19:30:30 +0900</pubDate>
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         <title>文科省の騙まし討ちを思う！</title>
         <description>　こんな騙まし討ちがあるだろうか。「愛国心」という言葉をめぐっては、この数年間議論をし、ある種の問題を感じたからこそ、文科省はじめ与党も中教審も使用を控えていたにも関わらず、こんな形で、いとも簡単に学習指導要領の中に入ってしまった。中教審の答申が、「改正教育基本法」の名の下に簡単に変えられ、突然、私たちの教育現場に入ってくるのだ。
　「愛国心」の問題は、私のメルマガで何度か取り上げたが、生徒の心情をコントロールする意図をもって、教育の目的にしてしまうのが、問題なのだ。こういう文言が学習指導要領の中に入れば、踏み絵になっていく可能性がある。東京都が、今必死になって不起立教員を吊るし上げているが、それと同じことが行われる可能性がある。
　ことに、道徳の時間でのことだからなおさらである。そしてこの指導要領から道徳の時間は、従来とは違って、さらに踏み込んだ指導になっていくことになるから、こういう文言が入ってしまうことに非常に大きな危惧を持っている。
　旧教育基本法でも改正教育基本法の第十六条でも「教育は、不当な支配に服することなく」とあるが、それは、どんな政治体制からも教育は、自由を保障されていると解釈してよいはずだが、こんなに簡単にこの解釈を踏みにじってしまって、今後この解釈が守られるのか、非常に疑問だ。その時代時代の与党が、ドンドンと自分の都合のよいような、解釈を繰り返し、道徳の時間を教科としての「道徳」にして、子どもたちのマインドをコントロールしていきそうで怖い。
　結果的に、郷土を愛し、地域社会を愛し、ある地理的単位としての領土を愛し、みんなを愛することが出来るように、私たちが生きる生活世界を向上させていくのなら何も文句はないが、教育という武器で、マインドコントロールに傾いていくのは、黙って見過ごすわけには行かない。
　私たちの教育の目的は、一人前の大人になっていくことで、自分で判断し、自分で行動していけるようになることだ。それも、社会の一員として。このことと「愛国心」の問題は、同じではない。無批判的に国を愛するようになってはいけないのだ。そういう批判能力を封殺してしまうような、教育状況を作ってはいけないのだ。自己批判できる能力を身につけてこそ、教育に価値が出てくるのだから。
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         <pubDate>Fri, 11 Apr 2008 22:35:04 +0900</pubDate>
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         <title>全国学力調査に想う</title>
         <description>　全国学力調査が、これほどスムーズに浸透したのは、ゆとり教育による学力低下問題のおかげだ。それは、教育問題を学力問題に矮小化してしまった日本の文科省の最大の貢献だ。２００２年の教育改革で、日本は、目には見えない複線化（エリート教育と大衆教育の二極化した学校制度）の学校制度にこれからドンドンなっていくことになる。
　その仕掛けの一つが、この全国学力調査だ。日本の児童・生徒の学力レベルを知りたければ、任意の学校を抽出して行えば、それで済むところを無理やり全国に押し広げ、無駄に税金を使って、学校の序列化を押し進め、学校に学力忠誠競争を浸透させ、学力の高低で生徒を一元的に管理し、評価していく。そして、学校や教師までも学力を物差しにして、評価していくための仕掛けが、全国学力調査だ。
　教育は、学力をつけるために行うのではない。一人前の人間＝大人になっていくために、課題を設定し、その課題を乗り越えることを通して、一人前になる過程が、教育だ。だから、学力を獲得することが、目的ではないのだ。
　学力の獲得を通して、自分と向き合ったり、知的好奇心を喚起されて社会や科学や生活に興味を持ったり、そして、仲間と協同して何かを成し遂げる中で、一人前になっていくことが、教育の目的なのだ。だから、学力をつける過程は、教育の目的ではなく、手段なのだ。このことをもう一度私たちは、確認するべきだ。


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         <pubDate>Sat, 22 Mar 2008 18:24:44 +0900</pubDate>
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         <title>教育は、学力を獲得することが目的ではない。</title>
         <description>　先月の初めにＮＨＫのディレクターの方が事務所にみえて、学力低下問題について話をした。教育問題と学力低下問題を同一に考えるべきではないとお話したが、その中で、学力を獲得することが、教育の重要な側面ではないのだと強調しておいた。
　昨今は、学力の高い人が人間的にも上で、学力の低い人が人間的にも下だという風潮があるが、決してそんなことはない。学力が高くても低くても、一人前の大人になることが重要なのだ。知識の獲得競争にむいている人間もいれば、むいていない人間もいるし、知識を活用することに長けている人間もいれば、そうでない人間もいるのだ。子どもの一時期をそういう単純な価値観で縛ってはいけない。
　学校教育で重要なことは、学力を獲得するということではなく、学力を獲得する過程の中で、さまざまなことを経験することにある。学力を獲得することが目的ではなく、学力を獲得しようと格闘する中で、身につける社会性が重要なのだ。
　目の前にある課題に対して誠実に対応するとか、見本になる人の真似をすることで、見本となる中身が自分の中に入ってくるとか、そういう経験が重要なのだ。学びの基本動作を学ぶことで、子どもから責任ある社会の構成メンバーとなり、現実から学んでいけるようになることが重要なのだ。単なる学力獲得忠誠競争に勝利することが、学校教育の教育効果ではないのだ。そのことを忘れないで欲しい。
　学力という基準だけで、子どもを評価しては駄目だ。他人に対する共感力や相互扶助的な行動力や問題解決能力などの基準で、子どもを多元的に評価していくべきなのだ。そうすれば、子どもはきっと今よりももっと活き活きするはずだ。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/03/post_42.html</link>
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         <pubDate>Mon, 10 Mar 2008 20:05:04 +0900</pubDate>
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         <title>文部科学省は、今後の教育行政の方向性を示すべきだ</title>
         <description>　私は、２００２年の教育改革の本質を教育の自由化と教育の二極化だと思っている。その仕掛けとして、ゆとり教育を掲げ、世間を情報操作した。つまり、学力低下問題を引き起こし、世間に学力問題＝教育問題だという構図を定着させ、学力偏重の下地を作った。総合学習の時間や絶対評価は、学校離れを食い止めるための一つのリップサービスだ。
　この教育改革の真の狙いは、エリート教育と大衆教育の複線化の下地作りだ。しかし、戦前のような単純な複線化（二元的複線化）は、国民の反対を巻き起こすから、巧妙に、結果的に複線化（一元的複線化）になるように仕掛けたのだ。
　その前提が、教育の自由化の流れだ。学習指導要領をマキシマムスタンダードからミニマムスタンダードにして、最低限の学習項目を示し、学校の裁量で高度な内容を教えても良いとした。これにより、義務教育でも学校間格差が生じた。ましてや、普通科高校は、エリート校と中堅校では、教科書の名前は同じでも、学習している内容は雲泥の差になっていて、暗黙のうちに大学受験の有利不利を生んでいる。しかし、大学進学の道を中堅高校以下にも閉ざさないように、大学入試形態の自由を確保している（ＡＯ入試や一般公募制や指定校推薦などの入試形態が、幅を利かせている）。
　そして、今回の学習指導要領の改訂だ。学力低下問題を受けて、授業時間を増やし、選択科目を削減して、その分を学力向上のために使うように、学校の裁量権を増した。教育改革のスローガンは、なんっだたのか！「みんなが百点を取れる教育」を謳って、ゆとり教育を始めたのではなかったか。こんなスローガンを誰も信じていなかったのに、これを推し進めた結果責任を誰が取るのか。
　文部科学省や中央教育審議会は、今までの教育改革を徹底総括し、自己批判して、今後に臨むべきではないか。そして、今後の教育行政は、どこに向かって進んでいくのかを示すべきではないか。どんな子どもを育てるかという前に、どういう仕掛けで、学校制度を子どもが渡っていくのかを示したらどうだろうか。
　美辞麗句を重ねても意味はない。日本の来るべきリーダーを育てるために、エリート教育をしたい、と堂々と明言するべきではないか。そこから、私たちの教育に対する議論が始まるように思う。私たちに、教育行政の真の狙いを公開するべきだ。戦前の二元的複線化も現在の一元的複線化も私たちは、望んでいないように思えるのだが、どうだろうか。
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         <pubDate>Mon, 25 Feb 2008 18:56:19 +0900</pubDate>
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         <title>この試みは、学習塾に学校を貸しているだけのことだ！</title>
         <description>　ちょっと、前の話になるが、杉並の和田中が、夜間の学校を学習塾に提供するという試みが話題になった。都教委は、待ったをかけたが、石原都知事が後押しをする格好になって、結局行うことになった。藤原和博校長は、学校界に新風を巻き起こしてくれていたから第一人者だが、今回の試みには、大変がっかりした。
　学習塾にとってみれば、学校を間借りして、その学校の生徒を集めやすくしているだけのことだ。採算を取ろうとしていないといっているが、この月謝の高さは、普通の学習塾であれば、正規の月謝とほとんど変わらない。なんで、こんな試みを学校でやろうとするのかわからない。学校の通常授業とこの学習塾の授業には、何の関連もないということなのだから、学校が、場所を提供する意味はなんだろう。
　学校の付加価値で、学習塾の授業が安く受けられますよ、ということなのだろうか。学校の付加価値を学校自体が創造するのではなく、学習塾のサービスを安易に使ってそれを行っていこうとするのであれば、学校や教師の怠慢にならないだろうか。
　進学塾のノウハウを活用して、カリキュラムを編成していくのは良いとは思うが、学習塾が、学校を間借りして学習塾として事業を行うだけの今回の試みには、大きな疑問が残る。教育の私事性が蔓延した結果、こんな試みがなされてしまうのだろうが、何でもかんでも新しい試みをすることが良いことなのではない。学校には、学校の領分が、学習塾には学習塾の領分があるはずだ。学習塾の宣伝の片棒を担ぐような今回の試みは、今からでも中止したほうが良いと思う。
　それに、中学２年生を対象にするそうだが、中学３年生になったら参加した生徒は、どうすのだろうか。近くにその学習塾が校舎を作って、収容するのだろうか。そんなことを考えてみると、学校の宣伝として、学習塾の宣伝として、今回の試みがあるように思えてならない。
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         <pubDate>Wed, 23 Jan 2008 18:24:20 +0900</pubDate>
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         <title>明けましておめでとうございます！</title>
         <description>　福田内閣もとうとう教育に本腰を入れるようだ。教育再生会議を解散し、その提言を実行に移す委員会を設置するという。しかし、どうだろうか。提言自体が、本当に日本の教育にとって良いことなのか、様々な議論がされて、消えていったものもあり、残ったものもあるが、果たして、教育再生会議のメンバーに本当に長期的なビジョンがあったのだろうか。そのことをしっかり吟味していったら、もう一度やり直しになるかもしれない。それほど、教育の議論には、論拠がないのだ。
　まあ、ともあれ、私たちは、教育行政に注目し、教育議論を活性化させていくしかないと思う。
　今年もよろしくお願いします。</description>
         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2008/01/post_39.html</link>
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         <pubDate>Fri, 04 Jan 2008 18:50:18 +0900</pubDate>
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         <title>入試一ヶ月前から朝型の生活スタイルにしておこう！</title>
         <description>　受験に備えて、夜型学習から朝型学習に転換しなければならない時期になった。この時期から風邪をひくことは禁物だ。インフルエンザの予防接種はされていることだろうから、後は睡眠をしっかりとって、体調管理を徹底することだ。
　まず一日のタイムスケジュールだが、学習塾のある日とない日、そして土・日に分けて考えてみよう。

　　　　　　　６：00～７：00～８：00～９：00～12：00～16：00～21：00～23：00
　土・日 ：　起床　朝学習　　　←　　　　学習塾　　　→　過去問演習　　就寝
　塾ある：　起床　朝学習　　 ←　　　　学　　校　　 →学習塾→単元学習 就寝
　塾ない：　起床　朝学習　　 ←　　　　学　　校　　 →　過去問演習　　就寝

　睡眠時間は最低7時間は、取るようにし、塾のある日は、塾から帰ってきたら、1時間程度で勉強を切り上げさせて、寝かせるようにしよう。単元の復習をする程度でいいのだ。塾のない日と土日曜日に志望校の過去問をしっかり行うようにすれば良い。また、朝の学習は、漢字や計算などの作業系を1時間は行うようにしたい。
　人間の脳は、起きてから２時間は上手く働かないことが多いそうだから、早寝早起きを徹底させて、朝から力が出るようにしたいものだ。そのために、今から朝型人間にしておいたほうが良い。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2007/12/post_38.html</link>
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         <pubDate>Tue, 25 Dec 2007 19:21:54 +0900</pubDate>
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         <title>亀田親子に思う</title>
         <description>　ここ数週間、亀田親子の話題で日本中が持ちきりだった。昨年来、亀田親子の親子愛・家族愛をマスコミが持ち上げた。彼らのそのほかのヒール的な発言や派手な練習スタイルのパフォーマンスについては、このメルマガで取り上げる資格はないから、亀田親子現象の親子愛について今回は取り上げたい。
　亀田親子の親子愛・家族愛は、実は、それほど褒められたものではない。母子癒着が日本の親子関係では、非常に問題だと従来言われてきたが、その親父版が、亀田家の親子愛・家族愛だ。このメルマガでも何回となく触れているが、親子関係の本質は、子どもの自律＝自立劇だ。依存状態の親子関係を脱却して、親と子が相互に自律＝自立していくことだ。亀田家には、そういう関係性がない。
　子どもを金づるに仕立て上げた父親が、恐怖と巧妙な愛情で、３人の子どもを集団睡眠状態＝洗脳状態にして、相互依存状態を徹底的に高めた結果、あのような異常な親子愛・家族愛になったように思う。しかし、こういうことは、程度の差はあれ、どの親子にも見られる現象だ。亀田家ほど、異常ではないだけだ。父親や母親の果たせなかった夢を子どもに託して、徹底的に教育していく、期待をかけていくというのは、どこでもある話だ。だから、この亀田家の事例を他山の石にして、親子関係を見直してみてはどうだろう。決して、亀田家だけの固有な問題ではないのだ。
　未だ若い、亀田三兄弟には、ぜひ、親離れを果たしてもらって、立派な大人になって欲しい。今回の事件で、社会に出て、恨みやつらみだけを持った人間になっては欲しくはない。君たちの努力は、並大抵の努力ではなかったはずだから。
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         <link>http://www.jyuku-go.com/blog/002/2007/10/post_37.html</link>
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         <pubDate>Sat, 27 Oct 2007 19:50:57 +0900</pubDate>
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